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ご由緒・ご祭神

由緒
韋駄天尊は江戸中期の作とされ、上州館林の城主秋元但馬守礼朝公の守護神且つ戦神として当初江戸浅草に祭祀され、明治四年同公の下屋敷たる当地に遷座されました。 その後広く信仰を集め参詣する人が増えたため、大正八年独立仏堂となるも大東亜戦争末の空襲により昭和二十年四月仏堂は消失破壊されました。 戦後の混乱も漸く治まりつつあった昭和三十年頃地元に復興の機運が高まり現在の板碑が復元されました。板碑は宮原柳遷画伯の揮毫により、名工草野氏が仙台石に彫刻し、 堂宇は大工頭領平田七五郎氏により総桧造りをもって再建されました。以来三十年の星霜を経て、当地が東京新都心として超高層ビルが林立し始めた昭和六十一年に周辺環境に相応しく、 また当地の守護神として末永く御加護賜らんことを祈念申し上げ、現在の堂宇を建立しました。
板碑

板碑(日本仏画大家 宮原柳遷画伯 筆 昭和三十年遷座)

御祭神

古代インド神話の神であり、仏教においては南方増長天八大将軍の一官として三十二将の主位に置かれています。インドの伝説によれば釈迦牟尼世尊の入滅後、 仏舎利を奪った疾足鬼に対し、韋駄天尊は特有の脚力をもって追い、雲を踏み、霧を破って瞬時に奪還したとあります。このことから足の速い様を韋駄天の如しといい、 その走力を韋駄天走りと称するに至ったと云われています。

御神徳

韋駄天尊は勇猛迅速の謂を以て、古来諸大名の間では守護神又は戦神として祭祀され、世の信仰者からは勝負事の神、若しくは足の神として尊崇されており、 殊に腰部より足先にかけての疾患等はその信心により癒されるとされています。また、寺院においては修行僧の世話、特に食事に関する事を司るとされており、 寺院の厨房に祀られています。元々のインドにおいては生後間もない子供の病魔を退けるとも信仰されており、子供の守り神としても崇敬されています。

新宿韋駄天尊堂

新宿韋駄天尊堂

浅草から角筈にご遷座

元々立像であった韋駄天尊像を秋元家屋敷の浅草新寺町から下屋敷のある新宿角筈へ運搬しようと請け負った者が、 男一人と荷車一台を手配して訪れたところ、高さ六尺、重さ三百貫程という想像以上のものでありました。 また、浅草から角筈までは一里半は優にあり、駿河台や九段の坂もこれでは覚束ないとして後日準備万端臨まねばと考え出直そうとしました。 ところが運搬人の耳元で「心配することはない。坂やなんぞは俺れが後押してやるから運べ運べ」と囁かれたので、 やってみるかと韋駄天尊と蛯子稲荷大明神の御二柱を車上に上げ、荷車を引き出してみると案外千万にも坂道になっても平坦を行く軽さで、 角筈の下屋敷にまで運び込んでしまったと伝えられています。韋駄天尊の御加護によって後押しをしていただいたのだと当時の人々は云い、 より崇敬の念を篤くしたとされています。

立像から板碑へ

大正八年に独立した仏堂が建立されましたが、昭和二十年四月空襲により消失破壊されました。韋駄天尊の立像はというと戦災の焼野のなかに放置されていた次第です。 戦後復興が進む中昭和二十六年とある会社の社員寮を角筈界隈に建設することとなりました。工事関係の車両が行きかう中、その中のトラックが子供の両足を轢き折るという事故が起こりました。 この時現場には韋駄天尊の足だけの破片があったと伝えられています。ある人は韋駄天尊を粗末にしたためにおきたものだと、また別の人は韋駄天尊の御加護により子供の命は助けられたのだと噂しました。 どちらにしましても角筈の人々にとって篤く信仰された韋駄天尊がこのまま御粗末にされたままでは忍びないと皆が考えるようになりました。まずは毀石を取り纏め、石蔵を作ってその中に納め、 ささやかなお社を安置しお祀り申し上げました。戦災より十年経ち、世情も安定したころ韋駄天尊の板碑を同地にお祀りする運びとなりました。

韋駄天尊例祭
韋駄天尊例祭 写真